待てない私が待てた夜
ミロンガ会場にアルゼンチンタンゴの曲が流れ出し、みんなが席を立ちフロアにバラバラと向かう中、私は席に座ったまま動かなかった。
カベセオ(目配せ)で繋がったこの曲を踊る殿方が、私の目の前まで赴き手を差し出した時、私は彼の目を見ながらニコっと笑顔を見せ、差し出された手に自分の手を合わせてゆっくりと立ち上がる。そして繋がれた手を頼りにフロアに出かける。タンゴは、踊る前から相手との時間が始まっているのだ。
ここまでの仕草ができるようになったのは、いつだっただろうか?
留学に来たばかりの頃のせっかちな私には、この大人しく「待つ」という行為自体ができなくて情緒もエレガンスも無縁だった。
せっかちな私の告白
仕事をしていると、段取りと先読みはとても大切。
ついつい、この次にはこれが来て、だからあれとこれをして…と先読みして準備しておく癖がついてしまう。日々の料理だって、会話だって先読みが大事。パートナーとの関係だって。
以前の私は、カベセオで目が合ったら早々に立ち上がり準備して待つ。なんならちょっと足を床に慣らしてみようかしら?なんて、床の感触を確かめたりしていた。
踊る気満々なその態度はよくわかるのだけれど、今となっては情緒がない。相手の想像を掻き立てるような余韻も雰囲気もないのだ。
悪気はない。
でも色気もない。
タンゴは余韻が大事
タンゴを踊る時、フォローする側である女性は、リードを受けて動く。しかし、この先読みの癖があると「きっと次はこれ!」と読んで男性側のリードが来る前に脚を出してしまう。
すると、違ったことをやろうとしていた男性も女性の読みに従うしか無くなり、面白みをまったく感じない。また踊りたいとも思われないから次回は誘われないという仕組みである。
先生たちが「待って」「待って」とリードを待つように促すのだけど、この癖はなかなか治りにくい。
待てない理由はなんなのか?
間違えたくない?遅れたくない?役に立ちたい?ただ単に落ち着きがない?どれも当てはまるけど、でもそれって…誰のため?
ーーーそんな気持ちになること、ありませんか?
この問いは、タンゴの外でもよく思い浮かぶようになった。
疲れていた私
そんなある日、非常に疲れていたけれどレッスンを受けなければいけない状況。
予約していたプライベートレッスンが遅い時間で疲れていたのだけど、いつものみなぎるやる気もなく、言われるがまま、ワンテンポ遅れるような動きの鈍さ。エナジードリンクを買ってこなかったことを後悔した。
その時先生に「すごく良いよ!その調子。今日はリードが聴けてるね」と褒められた。
半分眠っているような状況だけど、その分、余分なことを考えずに相手に集中していた。相手の重心の移動、音楽の聴き方、呼吸の速度、今まで気がつかなかったことに目がいった瞬間だった。

待つことは受け身ではない
その時、わかった。
待つことは、何もしないことではない。
待つことは、全神経を相手に向けて「次の一瞬」を全力で受け取る準備をすること。
先読みしていたあの頃の私は、相手を見ていなかった。自分の予測の中で踊っていたのだ。相手が何を感じ、どこへ向かおうとしているのか?そんなことより、「次はこれ」という自分の中で完成されたシナリオを優先していた。
でも「待てた」夜、私は初めて相手の音楽を聴いた。
その人がどんなリズムで呼吸をして、どんな重心で音楽を表現しようとしているか。全部、間の中に流れていた。
この「待ち」ができた時はじめて、「一緒に踊った」と感じた。
正直、せっかちは、まだ治っていない。
でも今は知っている。「間」の中にこそ、いちばん大事なものが流れているということを。
それではみなさま。
¡Abrazo grande!(あなたに大きな抱擁を。)

[この記事を書いた人]AKANE
タンゴライフアドバイザー・タンゴダンサー・講師
1980年生まれ。日本での会社勤めを経て、35歳で南米アルゼンチン・ブエノスアイレスへタンゴ留学。本場のタンゴから“身体と心のコミュニケーション”の豊かさに魅せられる。
タンゴを通じて「抱擁・リード・呼吸・間(ま)・非言語のやりとり」の哲学に触れ、それを「パートナーとの関係性」「日常の愛情表現」「夫婦の時間」「男女のコミュニケーション」の視点で読み解けないか日々妄想中。
ウナタレでは、アルゼンチンタンゴの抱擁・会話・距離感を通じて学んだ、自分と大切な人との関係を見つめ直す“気づきの時間”をお届けしたいと思っています。
私の好きなブエノスアイレス
https://akanetanguera.com/