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記憶の改ざんはできない

母の亡き夫との記憶

認知症の祖母と、祖母の介護で鬱になった母をサポートすべく、今年の8月から実家で暮らしている。

先日、自室のテレビが突然映らなくなったので、直してくれと弟を呼んだ。

母と祖母の面倒を見てもらっているという恩義があるせいか、弟は車で30分の距離にある自宅からやってきて、気持ちよく対応してくれる。

ボロい実家なので、伸び放題の蔦がテレビの線に絡まっていたらしい。
配線を見に外に出た弟と、室内にいる母が大声でやり取りをしていた。
母の投げかけに、弟が外から大声で答える。
その回答が、言葉の一語一句が、父(故人)とのある日のやり取りと、まったく同じだったらしい。

母が喜ぶ。
「だってパパとまったく同じ回答するんだもん」
涙を流しながら笑い、いつまでたっても喜んでいた。

気持ち悪いを通り越して、薄ら寒いし怖い(さとちゃん心の声)

なんでそう思ってしまうのか、解説します。
だるいから箇条書きで。

薄ら寒い理由

・さとちゃんパパは、64歳のときに脳梗塞で病院に緊急搬送

・緊急手術で頭を開けてみたら「あ、これもう手術できないやつね!」だったので、何もせずに閉じてそのまま川越リハビリ病院へGO

・高次脳機能障害と左半身麻痺という立派なタイトルを2つもらい、64歳の若さで要介護度5の認定を受ける(※最大が5)

・川越リハビリ病院に居られる半年間がまもなく終了というときに、婦長さんに遠回しに、ものすごーく遠慮がちに言われる。

「お父様、おそらく家に帰りたいと思うんですよね、、、自宅介護は難しいですかね?」

・母に相談したところ「自力でトイレに行けない状態で戻ってきてほしくない」「火の始末も心配」と、完全拒否

・病院に行った日以来、もうずいぶん家に帰っていないから、一度だけ家に帰らせてあげては?の提案に対しても
「里心がついて、施設が嫌だとか言われたら困るから嫌だ」
と、これまた頑なに拒否

うん!みんなもうだんだんわかってきたかな???

わたしが母に対して、「気持ち悪いを通り越して薄ら寒くて怖い」と、辛辣な評価を下す理由が。

まだ続くから、もうちょっと我慢して聞いてくれ。

・母が断固拒否したので、川越リハビリ病院→老人保健福祉施設へ。
ここにも半年しかいられない決まり。
半年後には、自宅介護or特別養護老人ホームのどちらかを選ばねばならない。

・ちなみにウチの弟嫁は、父が手術ができないとわかったときから「お義姉さん、介護ベッドってレンタルするより買っちゃったほうが安いみたいです!」と、意気揚々と言うような天使の生まれ変わり(=変人)なので、最初から介護する気満々。

・さらに言うと弟嫁は、川越リハビリへ1日置きに訪問し、毎回、父の洗濯物を持ち帰り、施設内で「よくできた娘さんよねー」と噂になっていたらしい。実の娘と間違われて。
*補足:リアル実の娘(私)が川越リハビリに行ったのはたったの1回。

・当然母はこのときも「特養に入れたい」を強く主張。絶対に家には戻したくない。一時帰宅も里心つくから拒否。老人保健福祉施設から特養への直行を強く強く希望。

・そんな母に対し、弟嫁・私・母の3人体制で、さらにヘルパーさんの手も借りて、自宅介護しないか?を提案。川越リハビリの婦長さんに言われるまでもなく、父は「家に帰りたい」「家族に迷惑をかけるのは当たり前」「だって家族なんだもーん」のタイプ。家も大好き。そんなのみんなわかってる。
高次脳機能障害のせいで、自分の意思を伝えることはできないが、伝えられていたら帰りたいと言うに決まってる。

・3交代制介護の提案も母は断固拒否。子供やお嫁さんに迷惑をかけたくない、パパの下の世話なんてしたくないの一点張り。
次なる提案として、当時、稼ぎの良いサラリーマンだった私が、ひとり暮らしの家に父を引き取り、ヘルパーさんや有料サポートの手を借りて自宅介護することを提案。こちらも母は拒否。「娘の面倒になりたくない」

・母のあまりに冷徹な、自分本位な発言に呆れ果て、母に対して人格否定攻撃をしかけたところで、心優しき弟からストップが入った。
「姉ちゃんに攻撃されて、ママが精神的に参っている。ここでママにも倒れられたら、さすがに俺らも面倒見きれないから、気持ちはわかるけど、自宅介護は諦めてもらえないだろうか」

はああああ?

と思いつつ、弟の言うとおりだなと納得した私は、父を老人保健福祉施設→特養へ直行させることに反対しなかった。もう知らんわ。

生活の変化を受け入れるのが苦手で、昔からホスピタリティに乏しく、糖尿病を患ってからの父と関係性が悪くなっていた母が、断固拒否する気持ちもわからないではない。

でも、一連のことで、母を心底軽蔑していたので、以降、ほとんど実家には近づかなかった。
こうしていま、共に暮らし始めるまでは。

さらなる余談だが、67歳で特養で死んだ父の火葬場で。
焼かれて出てきた骨ほねロック状態の父を見て、母は駆け寄って泣き叫んだ。
姉弟+弟嫁が、その様子を見てドン引きしたのは言うまでもない。

母と暮らし始めてわかったこと

前置きが長くなった。いよいよ本題。そして締め。

父が死んで何年経ったのだろう。7年くらい?
母は父との良い思い出だけを切り取って語る。
父がいかに素敵な人だったか。
父が糖尿病になってから、夫婦の関係性が悪くなったことも、自分が頑なに自宅介護を拒否したことも、絶対に口にしない。それは別に構わないのだが。

この2ヶ月間、母と暮らして気づいたことがある。
母は、おそらく罪の意識を抱いている。

死ぬまで気づかなければ良かったのに。
嫁に比べて、娘に比べて、自分がどれほど非情な態度を取っていたかということに、気づいてしまったようだ。

鬱の一因だろうし、毎日欠かさず、朝9時から酒を飲むのもそのせいだろう。
シラフでいる時間に耐えられないかのように、酒を飲む。ずっと酔っている。
シラフのときと酔っているときとでは、まるで別人だ。

私の攻撃力は凄まじいので、あのとき、姉を制止した弟の判断は正しかった。でも、あのまま放置していいわけじゃなかった。
母が罪の意識に苛まれないよう、フォローすべきだった。
そんなこと、まったく1ミリも思い至らなかった私も同罪だ。

起きているほとんどの時間を、酔っ払っていないとやり過ごせない人生。
自己肯定感などあるはずもない。

どんなに酒を飲もうとも、どんなに美しい思い出だけ引っ張り出そうとも、記憶の改ざんはできないし、過去は変えられないし、罪の意識からも逃れられない。

それが母の残りの人生。現在74歳。

毎日、母を観察していてそれがわかったから、酒量を減らすように言うのをやめた。
母との関係は良好だ。

もう、何も変えられないであろう母を見て思う。

いま、まだ身体と気持ちと頭が少しでも動くうちに、過去の罪は清算したほうがいい。
贖罪って自分のためにするものなんだな。
そして自分にしかできないんだな。
他人は一切介在できない。たとえそれが娘であっても。

さて、私自身の罪はなにか。
間違いなく、長きにわたる不倫で相手の家族を苦しめたことだろう。
私は私の罪をどうやって償おう。

おしまい。

(追記)
今日のこの話は表に書ける話で、実は同じテーマで、(だれでも読める)ウナタレには書けないことがある。それは友の会に書くことにする。
私がどうしても書きたいから。

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