21世紀を生きる君に「翼」はあるか?~朝ドラ「虎に翼」と女性たち
頭のいい女はヒンシュクを買う
~第一週「女賢(さか)しくて牛売り損(そこ)なう?」~
2024年4月から始まったNHK朝ドラ「虎に翼」、好調です。「女性の自立を描いた画期的なドラマ」と持ち上げている筋もありますが、そもそも朝ドラって、代々「日本で初めて~した女性」が主人公のものが多かったようにと思います。
だから、「女性の自立を描いた」点はそれほど画期的ではない、と思うのですが、そう思う私でも、「虎に翼」からは目が離せない。
なぜならこれは、そのまま「令和を生きる私たち」の物語だという驚愕の事実が、本当に重いから。
ほぼ100年前の話ですよ!
それなのに、一つ一つのエピソードに深くうなずいてしまう私たち。なーんにも変わってないじゃないか!驚愕というより、なんなら絶望?まったくアップデートできてないこの「社会」は、女性にとってなんと息苦しいことか!
「頭のいい女が幸せになるには、頭が悪い女のふりをするしかない」
第一週のハイライトは、主人公・寅子の母はる(石田ゆり子)が、娘の将来を案じて言い放つ、「頭のいい女が幸せになるには、頭が悪い女のふりをするしかないの」という言葉です。
「学歴が良すぎると、嫁の貰い手がなくなる」「女は隣でニコニコしていればいい」「差し出たマネはするな」「女のくせに」「だから女は」
これ、明治大正じゃなくて、昭和の、それも戦後の昭和でも言われてきたことですよね。私たちは、いろいろな言葉を浴びせられながら、20世紀を生き抜いてきました。
「私、バカだから~」とかいいながら、ニコニコ笑って男の機嫌をとっていれば、それなりに「かわいい女」と呼ばれたのが、20世紀でした。そして、ちょっとでも女が上に行こうものなら「女の武器を使ったか?」みたいに言われる。
21世紀の今、少しはましになった気がするものの、それは女性が「反論」する力を得てきただけで、実際まだまだ勘違い男はたくさん存在します。
たとえば、
寅子がお見合いした相手の一人(オリラジの藤森慎吾が好演!)が、最初は「家庭でも夫婦で同じ話題を語り合いたい」と女性を理解しているような口ぶりだったけれど、寅子が「自分の意見」を述べ始めると一転、機嫌が悪くなるところなど、「えせフェミニストあるある」じゃないですか!いますよね、こういう男、今でも。
「女は補佐」と決まっていた20世紀
世界各国の男女平等の度合いを数値化した「ジェンダーギャップ指数」の2023年版報告書によると、日本の女性の地位は世界的に見て125位、いわゆる先進国と言われる中では大きく遅れて最下位となっています。
その要因の一つが、女性国会議員や女性役員の割合の少なさです。これ、悪しき文化のなれの果て、としか思えない。だってこれまで、女性は「補佐」でした。「女房役」って言葉がそれを端的にあらわしている、と思いませんか?
寅子の母はるは、有能な主婦として家庭を取り仕切っていたけれど、あくまで「夫の補佐」なのです。前面に出て交渉したり、意見を述べたりすることは「出過ぎた」行為でした。戦後、日本国憲法が制定され、家父長制が崩れてからも同じです。
部署で、自分がもっともそのことに精通しているから電話に出ているのに、電話の向こうの男は「上司を出せ」「男を出せ」の一点張り。女性は電話の取次ぎ役としか認識していない。
そんなとき、もし、「いえ、私がすべて任されています。上司に代わっても何もわかりませんよ」などと「出過ぎた」ことを言おうものなら、面白い仕事はまわってこなくなりました。上司ににらまれたらおしまい。
だから、戦後も女性たちは「頭の悪いフリ」をしてサバイバルしてきました。
「できる女」はにっこり笑い、「わかりました~」と男性上司に代わり、自分のまとめた資料を彼に渡してサポートするのです。男性上司に感謝され、次々と仕事を任され、しかし手柄はすべて男性上司。よくて「いや、〇〇君が優秀で助かります」とおほめの言葉をいただくくらい。それでもクサることなく、置かれた状況でもっとも自分が輝ける道を模索し、開拓してきました。
でもそれって、寅子の母が、すべてを取り仕切りながら夫の手柄にし、「すん」として隣にいるのと、何が違うんだろう。そういう「現状の中での最善策」は、結局世の中を前に進めなくしてしまったのかもしれない……。
「性役割」は女性の心の中にもある
同じ昭和でも寅子やはるの時代とはちがい、戦後は「日本国憲法」によって男女平等が謳われました。女性が参政権を得、家父長制はなくなり、結婚も「両性の合意」でできると定められています。
ところが、そうした中で育った私の時代でさえ、男女共学の学校の生徒会では、男子が会長、女子は会計か書記というのが普通でした。そうならなければならないという決まりはなく、自然とそうなっていった、というところがオソロシイところで、「リーダーは男」「表に立つのは男」が、女性にとっても身に沁みついていたのです。
だから、「先進的な」考えの女性を奇異な目で見るのは、決して男性だけではなかったと思います。おそらく、寅子のように「なぜ?」「どうして?」「はて?」と疑問を呈し続けた女性たちは、いろいろな壁にぶち当たったことでしょう。
「いつかはそういう時代が来る。が、今ではない」
「何もあなたが、今その“地獄”を見る必要はない」
「そんなことしなくてもいいじゃない」
「もっと普通に」などと、“善意”の忠告は、男性だけでなく、女性からも浴びせられたと思います。
1985年、男女雇用機会均等法も制定されました。総合職として就職した女性たちは、「法律」が男女平等であった分、なおさら「現場」でつきつけられるギャップに苦労したかもしれません。パイオニアは、時に捨て石。寅子の母が言うように、その道は孤独で、「地獄を見る」覚悟が必要だったことでしょう。平成ですよ、平成でもそうだったってことです。
そして、令和。
2024年1月の能登半島の大地震でも、避難所で、女性たちは高齢者であっても焚き出しや雑事をこなしているのに、男性高齢者の姿はそこになかった。「ごはんは出てきて当たり前」「雑用は女」の性役割は、21世紀の今も、共同体によっては厳然と残っていることが垣間見えた瞬間でした。
橋を渡り、道を歩く、すべての女たちの物語
「虎に翼」を見ていて気になるシーンがあります。いわゆる「エキストラ」のような人たち、道を歩いたり、橋を渡ったりする人たちが、時に苦悩の表情を見せることです。それも、女性に限って。ある時は、届け物を手にした女中さん、ある時は、大きな荷物を背負った老女、ある時は、何があったのか道端に立ちすくみ涙をぬぐう女学生。
そこに気づく人は少ないかもしれません。でも、「虎に翼」のコンセプトが、ここに象徴されていると私は思っています。つまり、この話は「すべての女性」の話だということ。
「日本初の女性〇〇」の一代記、「自分の意見が言えて、優秀で、家も裕福な、デキる女」寅子の苦労話、成功物語だけにはとどまらない、ということなのです。そこが、これまでの「朝ドラ」と違う、と感じるもう一つの理由なのではないでしょうか。
第一週には、寅子の母親の人生が凝縮されていました。また、女学校の大親友・花江は、「お嫁さんになる」という、その時代の常識的な「幸せ」を手にしますが、花江の人生もまた、寅子と同じくらい丁寧に描いていて、働くにしても結婚するにしても勉学に励むにしても、「これが女の幸せだ」とステレオタイプに断じていないところに好感を持ちます。
私たちは決して「女」とひとくくりにできない、「個人」なのです。個人がそれぞれの幸せをつかもうとするとき、世間は、法律は、その「壁」であってはならない。そう思います。これからどんな女性たちの人生がひもとかれていくのか、とても楽しみになる第一週でした。
★参考までに★
歌舞伎とシンクロ?? 18世紀の「女賢しうして牛を売られぬ」
この「虎に翼」が始まった2024年4月、東京の歌舞伎座では「夏祭浪花鑑(なつまつり・なにわかがみ)」という作品が上演されました。その1シーン。妻が自分で考えた方法を提案し、自らある人にお願いすると、夫が「こりゃ待て女房、女賢しうして牛を売られぬと、いらざるおのれが差配立て。頼んでよければ俺が頼むわい」とたしなめます。
つまり、「俺を差し置いて、何やってるんだ! 女の考えなど浅はかで、うまくいくはずないだろうが!」ということですね。だけど、いろいろあって、結局奥さんが言った通りになるんですよ! この「夏祭浪花鑑」、初演は1745年です。全然、昔話に聞こえないところが、本当にオソロシい! 日本男児のアップデート、本気で心配しちゃいます。
[この記事を書いた人]仲野マリ(Mari Nakano)
エンタメ水先案内人 1958年東京生まれ、早稲田大学第一文学部卒。
映画プロデューサーだった父(仲野和正・大映映画『ガメラ対ギャオス』『新・鞍馬天狗』などを企画)の影響で映画や舞台の制作に興味を持ち、現在は歌舞伎、ストレートプレイ、ミュージカル、バレエなど、年120本以上の舞台を観劇。おもにエンタメ系の劇評やレビューを書く。坂東玉三郎、松本幸四郎、市川海老蔵、市川猿之助、片岡愛之助などの歌舞伎俳優や、宝塚スター、著名ダンサーなど、インタビュー歴多数。作品のテーマに踏み込みつつ観客の視点も重視した劇評に定評がある。2001年第11回日本ダンス評論賞(財団法人日本舞台芸術振興会/新書館ダンスマガジン)佳作入賞。日本劇作家協会会員。
電子書籍「ギモンから紐解く!歌舞伎を観てみたい人のすぐに役立つビギナーズガイド」