
男の事情とやらを分かろうとしていたのか
かつてのボーイフレンドや元夫たちに対して、「なんでわかってくれないのよ?キーッ!」と怒ったり泣いたりした時代はとうに過ぎさり、50代になってつくづく思う。今は穏やかである(たぶん)。それは、キーキー言うにもエネルギーが必要で、今はそんなパワーが出ないからでもある。怒りに任せて何か言うエネルギー使うくらいなら、その気持ちを冷静になんとかわかってもらおうと、今は考える。うん。私も分別もついて歳をとったわけである(オザケン風)。結果、今ではよくもわるくもちょっと温和になった(と思う)。
そして振り返る。一体私は、何をそんなにわかって欲しかったのだろうかと。その頃の自分の辛さ?大変さ?同じ熱量で戻ってこない愛情表現?それとも?
とにかく、30代くらいまでは始終何かに不満があって、元夫や子供達に憤慨していたような記憶がある。朝ギリギリに起きて学校に遅刻しそうな息子の態度だったり、何回言っても帰る時間や、夕飯を食べないという事前連絡がない夫への不満だったり、家事の分担不公平だったりもした。そんなことの中で最も私が嫌だったのは、夫や息子たちが“立ったまま用を足す”ことだった。それに毎朝、毎日、毎夜、毎夜、もういい加減にしてよと声を荒げていた。
おそらくどこの家庭でも、座って用を足して欲しいと懇願しているのは、家事を担う、掃除をしている方、だいたいは女性である。立って用を足されると、どうしても周りに飛び散る。見えてなくても汚れている。少し掃除をサボると臭いもキツくなる。結果、声を荒げて男どもに言う。「座ってしてよ!!」

おかしい、絶対おかしいと、思っていた。息子たちには、トイレトレーニングの時から座って用を足すよう教えてきたはずである。座ってできるよう、“ホースは下に向けて”だの、“そぉっとおしっこ出して”だのと、細かく注文をつけて教え込んでいた。それなのに、小学校中学校と年齢が上がるにつれて、どうも立ってしている頻度が高くなっている気がしていた。さらに時々は、なぜか床が濡れていた。一体どうやったらこうなるのよ!もうママはトイレの掃除はしたくありません!ふんっ!
そしてあれから時は過ぎ、現在の私はというと、このトイレ汚され事情について全く憤りがなくなったことを声高らかに表明しておきたい。それは何も、私の身の回りの男性が座って用を足しているからではない。むしろ逆!そう、逆なのだ。今私は、家で立って用を足されようがどうしようが、今はそこを問題視していない。変わったのは男性側ではなく、私の考え方のほうなのだ。仮にトイレが汚れたとしても、掃除すればいい。それよりも何よりも、不自然で不都合な「座りトイレ」を押し付けられてきた男性の側の気持ちを少しでも理解して、優先したほうがいいのではというマインドに変わっている。
それまで私は、いかに自分の大変さをわかって欲しいかを訴えてきた。確かにトイレ掃除は大変である。綺麗が長く続いたほうが絶対に良い。衛生的である。この絶対的に隙のない正しさを前に、息子たちは立ってしたいという思いを封印せざるを得なかったのだと思う。確かに座って用を足したほうが飛び散りは少ない。ただ、座ってする際には体の構造上、棒の先を下に向けるなど不自然な体勢をとらざるを得ない。座った状態で少しでも尿が前に飛ぶと、便座の隙間から床に流れることもある(これが床を汚す原因のひとつだ)。女性が座って用を足すより、男性のほうが圧倒的に不利なのだ。そして便器や体の特徴(大きさ)によっては、座って用を足す際に便器に先が触れてしまうこともあるという。一定時間がすぎると自動的に水が流れてしまう機能がついているものでは、流れる水が棒の先に当たってしまうことすらあると。ぎゃー!ねえ、女性のみなさん、そんなこと知ってた?
これを知って私は思った。ちょっとこれは可哀想だったかもと。
私はそれまで、些細なことでも、日常の不満でも、私をわかって欲しいと叫び続けていたのに、私は男性側の事情を全く考慮できてはいなかった。座ってすることを強要される男性の気持ちすら、考えてみたことはなかった。トイレを綺麗に保つという絶対正義の旗を全力振りまくって、相手に弁解の余地を与えず、毎日の生理現象に少なからず不便を与え続けていたのだ。ごめんよ、息子たち。(ついでに元夫たち)

悪いのは、立って用をしてしまう男性たちではなく、便器の形状のほうだったのだ。男性便器がこの世から無くならないわけだ。あれは要るのだよ。とはいえ、家庭に男性用のトイレを別につけられるほど日本の住宅事情は甘くない。欧米の便器のようにもう少し容積が大きいものにできるわけでもない。(ついでに欧州のようにビデ用の便器がつけられるわけでもなければ、バスルームとセットで毎日床を水で流せるわけでもない)。そんなこんなで、問題なのは男性の衛生に対する意識ではなかったのだ。
わかって欲しいと思う前に、相手の事情をどれだけ分かろうとしていたか。
今ではパートナーが立って用を足そうがどうしようが、私はそれに関与する気もなく、トイレ掃除をしようと思えばするし、パートナーがすることももちろんある。できることをできるほうができる頻度でやればいいと思う。衛生観念が合う、または許容できるものであれば、互いの事情を思いやりながら暮らすことで、たいていのことはうまくいくのではないかと、今更ながら思う。これは何もトイレ問題に限ったことではない。私に足りなかったのは、相手の事情を理解しようとする姿勢だったのだ。
そんな思いながら、私はトイレに今日も座っている。おそらく日本のあちこちで、こんな葛藤が今も続けられていると思う。トイレ掃除、本当にみなさんご苦労さまです、ほんとに。悪いのは男子じゃないです。便座です。だから相手に怒るのはもうとりあえず、この問題だけでもやめませんか。きっと私たち女性もそのほうが衛生的です、心のね。そしてトイレメーカーは、日本の家庭の円満のために、どんな人でも用を足しやすくて汚れにくい便座を作ってほしい。これこそ、企業努力でなんとかしてほしいですよ。ほんとに!

[この記事を書いた人]渋谷 ゆう子
香川県出身。大妻女子大学文学部卒。株式会社ノモス代表取締役。音楽プロデューサー。文筆家。クラシック音楽を中心とした音源制作のほか、音響メーカーのコンサルティング、ラジオ出演等を行う。音楽誌オーディオ雑誌に寄稿多数。
プライベートでは離婚歴2回、父親の違う二男一女を育てる年季の入ったシングルマザー。上の二人は成人しているが、小学生の末子もいる現役子育て世代。目下の悩みは“命の母”の辞め時。更年期を生きる友人たちとワインを飲みながらの情報交換が生き甲斐である。
著書に『ウィーン・フィルの哲学〜至高の楽団はなぜ経営母体を持たないのか』(NHK出版)、『名曲の裏側: クラシック音楽家のヤバすぎる人生 』(ポプラ新書 )がある。

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