
「夫の前で泣けない女たち」
泣ける映画を観てかわいい涙を見せていられたのは、たぶん交際3ヶ月まで。
同じ映画で感動するという価値観のすり合わせが必要なのは、まだ付き合いたての男女の恒例行事くらいなもんで。
結婚して十数年、今となってはどうだ。
夫と観る映画が、泣けない。
いや、違う。泣きたくない。
もっと言えば、泣いたところで絶対に得をしない。
夜中にうっかり夫とNetflixで映画なんて観ようものなら
「いやー、監督の手癖すごいな~」とか言う、謎の映画評論家が爆誕してしまう。
感動以前に「これで泣いたら弱みを握られる」という脳内リスク管理が始まるのだ。
そもそも、夫ってやつは、妻の涙が一番苦手なんじゃなかろうか。
泣いてしまった女子を前にしたバツの悪い小学生男子みたいな顔で、
「おお、そこ泣く?…泣くんだ~」とニヤニヤされた日には、
「それ以上近づくな、私の領域に」と、それまでの感動なんて一気に消滅し北緯38度線にガッツリ線を引きたくなる。
特に、恋愛映画。夫とは絶対観たくない。
『きみに読む物語』みたいな純愛ものをうっかり夫婦で観ようものなら、
「感動してないふり」合戦のゴングがなる。
「これ絶対記憶喪失パターンだよね?」と私が笑う。
「展開早すぎんなー」と夫が合わせる。
お互いフィクションに冷笑を装いながら、どちらかが涙を見せた瞬間、相手の勝ちが確定するという謎ルールのゲームが始まっている。純愛ストーリーから、外交冷戦ドラマにジャンル変更だ。
少し前に『マリッジ・ストーリー』をNetflixで観た。
夫婦が円満離婚を望んでいたが、親権問題も絡み弁護士を介した法廷闘争に、かつての情も見え隠れしながら離婚を通じて夫婦の在り方がリアルに浮き彫りになる話。
夫も横にいて観ていたのだが、もはや感動どころか危険信号が点滅。
映画というより家庭裁判所のドキュメントのような感じ。
観ながら、隣にいる男との離婚を容易にシミュレーションしてしまった。
こうして、「泣けない女」がプロテクトされていく。
泣く=心を明け渡すこと。
長年夫婦というシーソーゲームを続けてきたからこそ、抵抗があるのだ。
Charaの名曲『やさしい気持ち』には、こういう歌詞がある。
「泣けない女の優しい気持ちをあなたが沢山知るのよ」
当時は「泣かないくせに理解しろって、ちょっとあつかましい」くらいに思っていたけど、今こそ全力で理解できる。そうでもしないと成立しなんだわ。
「泣かないのは、冷たいんじゃない」ってことだけは、あんたも理解しとこーか?って歌詞だと私は思う。

大切なものは目に見えない
先日、久々に一人で映画館に行った。
観たのは『ファーストキス』。
結婚15年目の夫婦が冷え切り、別れたはずの夫と過去で再会し、もう一度やり直す話。
観ながら思った。
これ、絶対に夫婦では観たくない映画だ。
妻である松たか子が、冷め切って別れたはずの夫のために、何度も何度も過去にタイムスリップして、夫の人生を取り戻そうとする。
最初こそ、松村北斗いいわぁ~なんて、俳優の演技を冷静に観ていたのだが、気づいたら私はポップコーンを抱えたまま、暗闇で涙を拭っていた。
隣に夫はいない。だから泣けた。
「なんでこんなところで泣いてるんだ」と思いながら、じんわり泣く。
これは“心で見なくちゃ、ものごとはよく見えない”という話なのだ。
かんじんなことは、目に見えない。
記念日の花束、誕生日のギフト、わかりやすい優しい言葉の手紙、そして映画の涙もだけど、目に見えるものはわかりやすい。
けれど、夫婦って、キッチンで黙ってお湯を沸かしている背中を見て、「あれ、仕事で何かあったかな?」と察したり、朝、なんとなくすれ違う玄関の「いってらっしゃい」で、その日のコンディションを読み取ったりする。
そんな目に見えない感覚にこそ、積み上げてきたものが詰まっている。
わざわざ泣かないことで保たれている関係が、ある。
泣くタイミングすら駆け引きになるような小さな内戦はよく勃発するが、それでも隣に座り続けていることで、夫婦を物語っているのかもしれない。

[この記事を書いた人]ウナギタレ子・タレ美(Taleko/Talemi)
加齢応援マガジンUNATALE編集部
姉のタレ子1972年生まれ、妹タレ美1973年生まれの更年期姉妹。
夜な夜な子供部屋で聴いていた「オールナイトニッポン」が今の姉妹の人格形成に影響を与えている。「A面」よりも「B面」、「ゴールデン番組」よりも「タモリ倶楽部」を愛する、根っからの「裏面好き」。SNSには露呈しないウナタレ世代のリアルな叫びを届けたいと日夜、奔走している。
ポリシーは「Your nudge, no tale」(ウナギノタレ)=「理屈こねてないで動こうぜ」