第一発見者になった日
4ヶ月ぶりに実家に帰って来た。そこに待っていたのは兄の変わり果てた姿だった。実家で一人暮らしをしていた兄が死んでいた。病死なのか、事故なのか、わからないけど茶の間に倒れてこと切れていた。
死体の第一発見者になってしまった。
去年の8月に母を亡くし、誰もいなくなった実家に11月から帰って一人暮らしをしていた兄。若い頃から風来坊のような暮らしをして来て、家族にも親戚にも散々迷惑をかけて来て、今さらどの面下げて実家に帰って来れたんだと、思ってはみたものの、70も過ぎて、年金しか収入もなくて、住む場所さえも定まらない暮らしに不安を覚えた兄を追いつめることも出来ず、「いいよ」と言ったのは私だった。
でも、田舎の町に住むならばそこに馴染むよう、地域の人に受け入れてもらえるように、いろんな手続きをちゃんとして近所付き合いもちゃんとしてね、と言うのが条件だった。
それなのにめんどうくさいからと、のらりくらりと話をかわして、いつまで経っても何もしなかった兄。
去年の暮れまではそれでも電話で話したりもしていた。それが、携帯電話が止まっているのに気がついたのが1月の半ば。家電は母が亡くなった後に止めてしまったので繋がらない。これから雪が本格的に降ってくる真冬の時期に何かあったりしたらと、ご近所の方に連絡して様子を見てもらった。その時には元気そうにしていたとのことで安心していた。
でもその後も相変わらず携帯電話は通じず、手紙を出しても返信もなく、これは近いうちに行ってみないとなと思っていたのだった。
雪のある間はなかなか足が向かず、春になったら、3月になったら、と思いながら、仕事が忙しく4月が始まっていた。
ようやく重い腰を上げて帰って来たら、すでに遅かった。いやだいぶ遅かった。なんとなく帰ることに気が重かったのだ。何が、とはうまく説明出来ないけど帰りたくなかったのだ。
連絡が途切れて様子がわからなくなった頃から何かを感じていたのかもしれない。こうなることを頭のどこかで想像していたのかもしれない。
朝、家を出る前に夫と冗談で「まさか死んでないよね?」なんて笑い話をしていた。まさかねと思いながら心のどこかで最悪の事態を考えていたのかもしれない。拭っても拭ってもそんな最悪の状況が頭を離れなかったのだ。
実家に着いて、玄関に鍵がかかって無かったことに安心して、玄関の戸を開けたらテレビの音が聞こえて来たことで、なんだ居るんじゃん!とホッとして「ただいま!」と入っていった茶の間で兄は冷たくなっていた。
「なぜ?」と「やっぱり!」で頭の中がいっぱいになりながらも冷静に判断している自分がいた。
すぐに110番に電話して状況を説明、救急に連絡しろといわれ119番、兄を見つけてからこの間5分ほどではなかったろうか。驚きと動揺は隠せなかったけれど、まさか自分がこんな状況に遭遇するとは思いもしなかったと言うのは嘘で、やっぱり心の中で最悪の事態を考えシミュレーションしていた自分がいたのではないか。我ながら冷静すぎる。
ちょっとして救急車が来て、救急隊の方が「これはもう・・・」と言うことですぐに警察に連絡。程なくパトカーも到着して、そこからは現場検証と事情聴取だ。
何があったのか?兄と最後にあったのはいつか?電話で話したのは?家族関係から兄弟の仲から家庭の事情から、つぶさに聞かれた。死因も特定されておらず、変死扱いなので警察も事件性を調べなければならないのだろう。それこそ根掘り葉掘り聞かれた。
それに感情を乱すことなく涙も見せずにすらすらと答えている自分を、どこか遠くで見ている自分もいて、今どんな気持ちになればいいのかわからずにいる自分もいた。兄が死んで悲しいのか、がっかりしているのか、動揺しているのか、、、もしかしてホッとしているのか。今だにわからずにいる。
遺体は警察署に運ばれていった。たくさんいた警察官もみんな帰って、死体の発見現場に1人残されて夜を過ごさなければならなくなったが、怖いとか心細いとかの感情も湧いて来なかった。
もしかしてどこか感情を司る器官が壊れてしまったのだろうか?と思うくらい、無だった。ただ、兄と一緒に食べようと思って買って来たお弁当を1人で食べた時だけは、ものすごく寂しかった。でもそれは兄が居なくなった寂しさではなく、家族に見守られることもなくたった1人で広い実家の一室で最後を迎えなければならなかった兄の寂しさだった。
なんで?お兄ちゃん?どうしたの?何があったの?
答える人のいない空間に問いかけてみても、誰も答えてはくれなくて、やっぱりそれはとてつもなく寂しいのだった。
警察署に運ばれた遺体は死因の解明のため大学病院で解剖されることになった。発見が金曜日の夕方だったので週明けの月曜日にならないと予約が取れないとのこと。日程が空いていれば早くて月曜日の午前中。事件性につながることが何もなければ、遺体の引き渡しはその日の午後。
葬儀の段取りは遺体が戻るのを待ってからになる。
そこで問題発生だ。11月に帰った兄は実家に住所変更をしていなかったのだ。住所が確定していないと死亡届に住所が記載できず、町役場から火葬許可証が出ないのだ。実家に帰る前も知人の家に居候させてもらってふらふらと暮らしていて、最後の住民票がどこにあるかわからないのだ。
もちろん警察でも手がかりを追って調べてくれていた。私たちは私たちで残されたほんの少しの書類などから住所を追っていった。そして最後の住所が判明したのは月曜日の午前中。解剖も月曜日の午前中に行われ、その日の夕方に遺体は斎場に運ばれ、火曜日の午前中に役場から火葬許可証をいただきその日がお通夜、次の日に火葬・告別式と言う流れで順調に事を運ぶことが出来たのだ。警察の皆さんにはたいへんお手数をおかけしたと思う。
葬儀は兄弟だけで送ることにして、参列の人もいない寂しいものだった。
71歳、死因は病気によるものだった。でもまだ70代、こんなに早く亡くなるなんて思わなかった。本人だってもしかしたら思ってもいなかったのではなかろうか?寒い冬が終わって春になったらいろんな手続きも済ませて、きちんとこの地の住人になって、畑でも耕して余生を穏やかに過ごそうと思っていたのかもしれない。
もっと早くに来ていれば、もっと連絡手段を考えておけば、ご近所の人にしっかりお願いしておけば、誰かが見つけてくれていたら、そんな後悔ばかりが頭をよぎってしまう。
孤独死が度々新聞やニュースで取り上げられる昨今、遠く離れた場所に一人で暮らす高齢の家族がおられる方は、無事を確認する上でもまめに連絡をしてあげてほしい。無事を確認する手段を日頃から考えておいてほしい。そして一人で暮らしている方はご近所とのコミュニケーションをしっかり取れるように暮らしてほしい。男性の方は特に。
田舎の小さな集落のこと、実家に戻った兄のことはご近所さんも気にかけてくれていたようだった。仕事の行き帰りに電気ついてるなぁ、とか皆さん見ていてくださった。近所のコンビニに買い物に行く姿も見ていてくださった。でも自身が積極的にご近所に関わらずにいたことが発見を遅らせた一因なんだろう。
どこでもいい、なんでもいい、兄自身が地域のコミュニティに参加しておくことが出来たら、また結果は違っていたのかもしれない。
かもしれない・・・ばかり言ってしまう、救えなかった後悔を家族に残して逝ってしまった兄。せめて、生まれた場所に戻って実家で最期を迎えられて良かったんだと、今は思うしかないのだ。
[この記事を書いた人]sachi
片づけアドバイザー 今年還暦を迎えたタイミングで4人目の子育てと母の介護から卒業。 やっと戻ってきた自分の時間に、好きなことやりたいことを模索する日々。 好奇心の赴くままに行動する日常をお届けします。