
50代、私を描き直す
最近、気づいてしまった。
会社の中で、自分は、やたらガソリンを食う古い車みたいな存在なんじゃないかと。
見た目はまだ動きそうだし、走ればそこそこスピードも出る。
でもエンジン音はやたら大きいし、燃費は悪いし、たまに変なランプが点滅する(※身体の不調)。新しいモデルと並べられると、性能差は歴然だ。なのに、維持費(給料)は若い子よりもかかっている。
そんなことを感じ始めた頃に観た、ドラマ『続・続・最後から二番目の恋』。
レコード会社、テレビ局、出版社に勤める定年間近の3人が、笑ったり泣いたりしながら、年齢と向き合っていく物語。
中でも、レコード会社に勤める水野祥子が部下のLINE誤爆を受け取ってしまう回。
グループチャットで彼女を揶揄する若手の会話が、うっかり本人に届いてしまう—あの瞬間、私は息を飲んだ。
「うわ、これ私だ」
「これ、もうすぐ自分の番だ」
あの顔。あの沈黙。そして強がることもせず、友人の前でただ涙をこぼす祥子の姿に、自分を重ねていた。
そばで一緒にショックを受けていた友人、吉野千明と荒木啓子の姿に救われた。
一人の時じゃなくて、よかった・・・あれは脚本の世界ではなく「おばさん」という括りに対する、世間のリアルだ。
ノンフィクションだ。
大人の味は、ほろ苦く
若者に人気の横文字業界では、年齢を重ねた人間への風当たりは強い。
時代の先端を走るのは、いつだって若者だ。
彼らは軽やかに最新トレンドを駆け抜ける。
私も、かつてはあのコースを全速力で走っていたから、あの爽快感はわかる。
でも今や、同じスピードを出したら膝が笑うどころか、そのまま整形外科直行だ。
若手に敬意を払って、下手に出てみる。
「これ、教えてくれる?」「さすがだね!」と声をかける。
でもね、時々、ちゃんと図に乗る子もいるんだわ。
これだからオバサンは、という態度を平気で出してくる。
「おいおい、調子に乗るなって。親の顔見せろや小童が。」と言いそうになる所をぐっと堪える。
危ない危ない、オバサンという生態は、そんじょそこらの小僧に本性を見せてはならない。
何も感じない、聞こえないフリしてるだけ。
昔なら、頭にきたらそれなりに言い返していた。でも今は、黙認する。
「いつか自分で気づく日が来ますように」と、念を送ってあげる。やさしいな、自分。
そして、もうひとつスルーする理由がある。
私も若い頃、同じように無自覚な失礼をふりまいていたはず、だから。
周りが見えない若い競走馬として、レーンを全速力で走っているとき、よく歳上の先輩たちが仕事のゴタゴタを始末しながら「私、大人だから」と、静かに言うのを聞いたことがある。
当時はその言葉を、「余裕あるなあ」「カッコいいな」くらいにしか思っていなかった。
でも今ならわかる。あの一言の裏には、若造に対する飲み込んだ怒りや、ぐっとこらえた苛立ち、そして“場を壊さないために言わない”という、静かな我慢がたくさん詰まっていたことを。
今の私は、その我慢の味を、ゆっくり噛みしめている。
拝啓、先輩 大人の味は結構苦いです・・・
物語は、まだ続くから
会社の飲み会。
若い子が「タレ美さんの若い頃の写真見せてくださいよ~笑」とか、
「タレ美さんって推しとかいるんですか〜笑!」という、歳上いじりを仕掛けてくる。
心の中では「だまれ、小童」とつぶやいている私がいる。
ああ、目にあまる、目にあまりすぎる。
誰か少年院に入れて更生してやってくれ、あのガキを。
という心の声を抑えて、トイレに立ち、居酒屋の鏡でふと自分の顔をのぞく。
目の奥にはまだ一応光が残っている。
輪郭も、ちゃんとある。
大丈夫、これからも、自分の物語の主語は、“私”のままだ。
若さというレーザービームにやられて、自分が主役のドラマから降板してはいけない。
誰かの人生の脇役やモブで終わるには、早すぎる。
しんどいことも、受け入れなきゃいけないこともあるけれど、この歳だから見える景色を堪能し、そのすべてを面白がりながら、生きていく。
It is never too late to be what you might have been.
(なりたかった自分になるのに遅すぎるということはない)」
—ジョージ・エリオット
更年期界隈、本日も涼しい顔で在席中。
風通しのいい居場所は、人がくれるものじゃない。
自分で作って、自分で座る。
私の物語は続くのだから。

[この記事を書いた人]ウナギタレ美(Talemi)
加齢応援マガジンUNATALE編集部員
姉のタレ子の誘いでウナタレ編集部にジョイン。平日はサラリーマンとして働きながら、市井の人々の人間模様を観察し、コラムのネタにするのが最近の醍醐味。
座右の銘は「ユーモアのない1日は極めて虚しい1日である」