父を憎まずにいられたのは母のおかげ
以前、「母と暮せば」というタイトルでコラムを書かせていただきました。なんだかんだ言いながら、母との縁は深かかったんだろうな。
両親は私が5歳の時に離婚、私は母、祖母、妹と女ばかりの4人家族の中で育ちました。私と妹は父の苗字を名乗っていたので、母とは違う名前。さらに祖母も2度離婚していて、母とは違う苗字。
そのため、うちの表札には3つの苗字が書いてありました。あれ、結構嫌だったな。
母には2人の姉がいて、下の姉はやはり2度離婚していたので、私は小学校低学年の頃からうっすらと「いつか自分も離婚するんだろう」と思っていました。
「業」という言葉は知らなかったけど、そういったものを感じていたのです。そして実際そうなった。妹も実はバツイチ。今の結婚はもう30年近くなるので安泰ですけど。
両親の離婚の原因は父の不倫でした。父は医学関係の小さな出版社を経営していましたが、私が3歳のときに会社が倒産。
父は債権者から逃げる時に、その女性を連れて行ってしまったのです。債権者が「社長を出せ!」と怒鳴り込んで来て怖かったのを私はよく覚えています。その人の顔や名前まで覚えてる。
ずっと後から伯母に聞いた話では、当時両親と女性の間はかなりの修羅場だったらしいけど、母は父の悪口を一切言ったことがなかったのです。
父が写っている写真も全部残っています。なので、私は父に対してネガティブな印象がなくて、父と逃げた女性にも悪い感情は持たずに育ったのです。母は偉かったなぁ。
父は母と離婚した後すぐに、その女性と再婚したのですが、結婚して何年も経たないうちに肝硬変を患い他界。
略奪婚からわずか6年でその人は未亡人になりました。
父は母の前にも結婚していたんだけど、その時の奥さんは自殺していてね。父は女性を幸せにできない人だったんだね。
父の葬儀の日、私は初めてその女性と3歳になったばかりの異母妹に会いました。私が小学校5年生のときです。幼い異母妹はお葬式の意味もわからずはしゃいでいました。
何年も会わなかった父の死は全然悲しくなかったけど、親が死んだのだから泣かなくてはいけないと思って、私は思い切り嘘泣きをしました。
時は流れて13年前に母が亡くなったとき、父の戸籍を取り寄せる必要があって再婚相手の女性に連絡しました。
女性とは父の葬儀以来で、大人になってから話すのは初めてでした。彼女は父の死後、本の倉庫の会社を立ち上げてひとり娘を育てたということでした。なかなかの実業家らしく、今では200人の社員を抱えているとのこと。
その方がきっぷの良い気持ちのいい人でね。1度横浜で会って食事をしたのですが、何故かもう使わないからとブランド物のバッグをいくつかくれました。
彼女のひとり娘もその時一緒に来ていて、異母姉妹なのに実の妹より似ていてお互いに笑ってしまった。
それ以来、その方は毎年、夏にはサクランボ、秋には能登の完全無農薬の新米30キロを送ってくださいます。「私が生きているうちは送るから」と言ってくれて、なんだか実家ができたような気分です。
実は私が小学校に入った頃、父が私を引き取りたいと言ってきたことがあるのです。そのとき私は軽い気持ちで母を選んだわけですが、もし父を選んでいたら私は彼女に育ててもらったかもしれない。そう思うと、他人とは思えないのです。
見方によっては私の家族を壊した人。母が恨みつらみを口にしていたら、私にもそれが伝染したいたはずですが、母がひと言も悪口を言わなかったお陰で、今こうして交流できています。
実にありがたいことだと思う。私の「なんでもアリ」の感覚の源は、こういうところにもあるのかもしれません。
[この記事を書いた人]やまざき ゆりこ
娘2人がまだ幼い30代前半のときに在宅ワークができるという理由でコピーライターになる。同時期に、伯母の勧めで書と墨絵を始め、以来文章を書くことと絵を描くことがライフワークに。6年前、思いつきで始めた日本画で色の世界にハマり、コロナ禍のおうち時間に身近な動物を描いていたらいつの間にかペットの肖像画家に。57歳で熟年離婚。現在はフリーペーパーのコピーライターをしながら、オーダー絵画の制作に勤しんでいる。着物好き、アート好き、美しいものが好きな1957年生まれ。
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