愛された記憶と写真という記録
7年前に今のマンションに引っ越すときに大幅な断捨離をした。そのとき、残しておきたい写真だけ外して中学生からのアルバムを10冊ほど処分した。卒業アルバムも捨ててしまった。
何しろ4LDKの一軒家から2LDKのマンションに移るのだから、荷物はうんと減らさなくてはならなかったのだ。それに写真は自分以外の人には処分しにくいということを、母が死んだときに身に染みて思ったから。
学生時代のアルバムは楽しい写真ばかりで、捨てるのを一瞬躊躇したけど、すべての写真は頭の中のメモリに保存してあるから、いつでも取り出せる。そもそも思い出というのは自分だけの個人的なものなのだ。
「写真は要らない」と思ったのは、離婚したからでもある。元夫とは中学の同級生だったから、どこを切り取っても彼の姿がある。だから結婚している時はアルバムは共通の思い出、共有財産のようなものだったのだ。
とはいえ、現実がどんどん進んでいくから過去を振り返って昔のアルバムを開いて見ることは殆どなく、結局誰にも開かれないまま棚で埃を被っていた。離婚した今はもう取っておく理由がないので、思い切って捨ててしまったわけ。
そんな中、赤ちゃんの時の自分が写る赤いアルバムだけは捨てられなかった。赤い別珍の布が貼ってある立派なアルバム。私は両親にとって初めての子なので幼い頃の写真はアルバム以外にもたくさんある。焼き増しした同じ写真が何枚もあったりして、どの写真にも我が子を思う両親の愛が感じられる。
父とは5歳のときに別れたけれど、写真の中の父は私を抱いて嬉しそうで、それを見ると私はとも言えない気持ちになる。私が自分の娘たちにカメラを向けていたときのように、我が子の可愛い姿を残したいという思いが伝わってくる。
母が偉かったのは、離婚後も父の写真を全部撮っておいてくれたことだ。赤いアルバムの中には父の姿もたくさんある。まだ妹が生まれる前の親子3人の写真には、その僅か3年後に離婚するような気配も見えない。人の心って簡単に変わってしまうんだなぁ。こんなに可愛い盛りの娘2人を置いて女性に走るなんて父はダメ親父なんだけど、何故か憎めないのは赤いアルバムがあるからかもしれない。
私は記憶力が異常に良くて、一番古い記憶は生後3ヶ月のときのものだ。2歳から先のことは何でも思い出せる。そのため肩車をしてもらったときの嬉しい気持ちや父の肩の感触、父が助手席に乗り、母が運転の練習をしたときのこと(母は畑に突っ込んだ)、父の膝に乗ったときの感覚や「としまえん」のプールに行ったときのことなど色々覚えているのだが、その記憶を保つ助けになっているのが写真なのだと思う。
父は5年生のときに他界したが、愛された「記憶」と写真という「記録」は、自己肯定感を育てるのに大いに役立った。親に愛されていると実感することは、人格形成の上で何より大事なことなのだと今改めて思う。
最近、誕生日が来ると両親のことを思い出す。母は14年前に76歳で、父は私が5年生のときに42歳の若さで他界したのだけど、赤いアルバムを見る度に懐かしさが込み上げてくる。
母があのアルバムを残してくれたから私は父を恨まずに済み、父の再婚相手の女性や異母妹と会うことができて、毎年お米やさくらんぼを送ってくれる第2の実家ができたのだ。
ママは本当に偉かったね、心からありがとう。
[この記事を書いた人]やまざき ゆりこ
娘2人がまだ幼い30代前半のときに在宅ワークができるという理由でコピーライターになる。同時期に、伯母の勧めで書と墨絵を始め、以来文章を書くことと絵を描くことがライフワークに。6年前、思いつきで始めた日本画で色の世界にハマり、コロナ禍のおうち時間に身近な動物を描いていたらいつの間にかペットの肖像画家に。57歳で熟年離婚。現在はフリーペーパーのコピーライターをしながら、オーダー絵画の制作に勤しんでいる。着物好き、アート好き、美しいものが好きな1957年生まれ。
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