21世紀を生きる君に「翼」はあるか?~朝ドラ「虎に翼」と女性たち
もし寅子が雲野法律事務所をやめていなかったら ~第23週「始めは処女の如く、後は脱兎の如し?」~
今週は、寅子が裁判官として関与する原爆裁判のゆくえを中心に、星家で深く静かに進行する百合の認知症が家族に与える影響や、閉経を間近にして更年期障害に苦しむ寅子などにスポットライトを当てながら進みました。「虎に翼」も終わりが近づいてきたせいか、いろいろなエピソードが満載で、どれもこれも駆け足なのが残念ですね。
その中で、私が注目したいのは、塚地武雅(ドランクドラゴン)が演じている雲野六郎弁護士です。原爆裁判の弁護団を率いてきた雲野は、裁判半ばで倒れ、この世を去ってしまいました。雲野先生には、実在の弁護士のエピソードが詰まっています。ドラマが彼に与えた立ち位置は、実はものすごく大きなものだったと私は考えています。
“雲野”に込められた3人の弁護士
塚地武雅演じる「雲野六郎」のモデルは、寅子のモデルである三淵嘉子さんが関わった3人の弁護士と言われています。
1人目が、彼女の父親の冤罪を晴らした弁護に加わった海野普吉氏、
2人目が、司法試験に合格した彼女が、実際に勤務した事務所の仁井田益太郎氏、
そして3人目が、原爆裁判に中心となって担当した大阪の弁護士・岡本尚一氏。
ドラマでは、穂高や桂場、多岐川など、直接の上司や師弟関係にあった人との交流や対立が多く描かれており、雲野は「優しい人」「断れない人」くらいの扱いともとれますが、こうして振り返ってみると、「法曹に生きる」と決めた寅子に、雲野が深く関わっていることがわかります。
「正しいもの」の味方であり続けるのは、寅子の理想
3人のモデルを融合したのが塚地武雅演じる「雲野六郎」。“雲野”は“海野”に通じますから、メインのモデルは、やはり海野弁護士なのでしょう。ドラマには、海野弁護士の弁護活動をイメージさせるエピソードがたくさん織り込まれています。
寅子と雲野が最初に出会ったのは、寅子の父が容疑者の一人として逮捕された「共亜事件」の弁護団の集まりでした(第5週)。「共亜事件」は、昭和9年(1934年)に実際に起こった政財界をめぐる大疑獄事件「帝人事件」がモデルだとされています。(三淵さんの父親も、容疑者の一人として実際に逮捕・収監されました)
学生の寅子は父の無実を信じ、街頭で無防備に署名活動などをしてまわって周りをひやひやさせます。
「法は、強き者が弱き者を虐げるためのものじゃない。法は正しい者を守るものだって、私は信じたいんです」
寅子のまっすぐな言葉を聞き、穂高教授(小林薫)は弁護団の会合で「私は無実を主張しようと思う」と宣言。そのときに、雲野弁護士は同席していました。
戦前、まだ裁判官と検事が正面の一段高い席に並んで座って裁判をしていた時代から、人権派として在野の弁護士を貫いた実在の海野氏は、私たちが「弁護士先生」に求める、ある種の理想を体現した人であったと想像します。
ドラマの中の雲野六郎も、困った人がやってくると、お金がないと言われても助けてしまいます。だからいつもお金がありません。金儲けに走らず、ひたすら庶民に寄り添う素晴らしい弁護士として、「こんな人がいてほしい」と思う弁護士として、雲野先生は描かれました。
しなやかに、したたかに、ぶれない男、雲野六郎
庶民の小さな事件を扱う傍ら、雲野先生は、検閲で国家に目をつけられた出版社や著者の弁護もしていました。これは、海野氏が実際に手掛けた「河合栄治郎事件」「津田左右吉事件」などを想定してとりいれられたものだと思います。いずれも1938年前後、日中戦争に突入し、国家による言論統制や官憲の取り締まりが強化され始めたころで、海野氏をはじめとする弁護団は粘り強く調書の矛盾をついて無罪を勝ち取っていったのです。
ドラマでも、雲野先生が「津田左右吉事件」など、思想に関わる検閲事件に多く携わる様子が描かれるようになると、私はハラハラするようになりました。
(雲野先生、そのうち捕まっちゃうんじゃないか? 襲われないか? 拷問を受けないか?)
実際、そういう時代です。気に食わない者、目障りな者など、ちょっとでも口実があれば、いつでも「しょっ引ける」はず。でも雲野先生は捕まらない! そして、塚地さんの持ち味なのか、いつも楽しそうで、飄々とした表情をたたえている。
そこがすごい!と私は思うのです。
彼は演説家ではありません。力でねじふせもしない。ひたすら緻密に丹念に調べ、法に照らし、「正しい裁き」に近づいていくのです。そのために努力を惜しみません。
その一方で、おそらく「無理」はしないと決めていたのではないでしょうか。
雲野弁護士は事務所の台所事情を考えて、まずはアシスタントのよねを、そして身重の寅子を、手放していきます。よねや寅子にとっては悔しい決断だったろうけれど、雲野先生には彼なりの使命がありました。戦時中であっても、絶対に事務所を閉じなかった。法を駆使して弱者の味方を続けてきたのです。
いかに生き延びるか。決して折れず、捕まらず、一人でも多くの人を救おうとする不屈の志。
その「したたかさ」を感じました。
戦後、実在の海野氏は「原爆裁判」には関わっていませんが、「松川事件」「砂川事件」など、日本を揺るがすような大事件を手掛けています。理不尽な扱いを受けても、国家権力の前に「無力だ……」とあきらめてしまいがちな人々の側に立ち、戦前も戦後も、決して姿勢を変えずに「自分のできること」「正しいこと」にまい進していった海野氏を、雲野弁護士というキャラクターは体現しているのでしょう。
寅子は「裁判官」より「弁護士」が似合う?
考えてみれば、寅子は最初雲野弁護士の事務所で働いていたのです。もしあのとき、妊娠していなかったら、妊娠していても働けるような環境だったら、彼女は雲野と一緒に様々な裁判に「弁護士」として参加していたでしょう。もしかしたら原爆裁判も、よねと寅子と轟と、三人で関わることになっていたかもしれません。いやいや、寅子がいたら、雲野先生、安心して寅子にあとを任せ、よねや轟には託さなかったかも……など、妄想は止まりません!
「原爆裁判」は、1955年(昭和30年)4月に提訴され、4年に及ぶ弁論準備手続と9回の口頭弁論が開かれ、1963年(昭和38年)12月に判決が言い渡されました。寅子のモデルである三淵さんは、最初から最後まで、右陪席を務めたそうです。
実際の三淵さんがどうだったかは別として、ドラマの寅子は、法衣を着て裁判官の席に座りながらも、その顔に爽快感はありません。寅子らしさが封印され、眉間のあたりに「はて?」と書いてあるような感じ。
日本初の裁判官として、重大事件を任されるまでになった寅子。でも、原爆裁判で被爆者たちの思いをひしひしと感じながら、裁判官としては判決で日本政府に賠償を命じるのは不可能なことがわかっている。寅子は自分の気持ちに、どう折り合いをつけたのでしょう。
「私ね、苦しいっていう声を知らんぷりしたり、なかったことにする世の中にはしたくないんです」
この言葉は、認知症が進み、バナナをむさぼり食べながら涙をこぼす百合(余貴美子)に、寅子が語り掛ける言葉ですが、法曹に生きる者として、自分の無力さを嘆いているようにも聞こえました。
「法は、強き者が弱き者を虐げるためのものじゃない。法は正しい者を守るものだって、私は信じたいんです」
そう言って父親の無実をはらすために奔走したことを、裁判官となった寅子は、どんな気持ちで思い出すのでしょうか。
そもそも、寅子が裁判官になったのは、それを希望したのではなく、「生きるため」でした。
戦後、夫や兄は戦死、父は病気。弟の学費を稼ぐためにも私が働かなければ、と心を決め、
「私の幸せは、自分の力で稼ぐこと。それも、自分の好きな法律の世界で」と宣言し、人手不足の裁判所に赴いて「事務官」になったのです。そこから家庭裁判所設立に関与し、裁判官としてのキャリアを積み上げてきたのでした。
本当は、寅子は弁護士になりたかったんじゃないのかな。モデルの三淵さんはわかりませんが、ドラマの寅子には弁護士が似合う。弁護士として、法廷で「はて?」を連発している寅子を、私は見たかった!
……まあ、それじゃ「日本初の女性裁判官一代記」にはならないわけですが。せめて「夢オチ」でいいから、よねと二人で体制側に迫っていく寅子を、見せてほしかったです。
[この記事を書いた人]仲野マリ(Mari Nakano)
エンタメ水先案内人 1958年東京生まれ、早稲田大学第一文学部卒。
映画プロデューサーだった父(仲野和正・大映映画『ガメラ対ギャオス』『新・鞍馬天狗』などを企画)の影響で映画や舞台の制作に興味を持ち、現在は歌舞伎、ストレートプレイ、ミュージカル、バレエなど、年120本以上の舞台を観劇。おもにエンタメ系の劇評やレビューを書く。坂東玉三郎、松本幸四郎、市川海老蔵、市川猿之助、片岡愛之助などの歌舞伎俳優や、宝塚スター、著名ダンサーなど、インタビュー歴多数。作品のテーマに踏み込みつつ観客の視点も重視した劇評に定評がある。2001年第11回日本ダンス評論賞(財団法人日本舞台芸術振興会/新書館ダンスマガジン)佳作入賞。日本劇作家協会会員。
電子書籍「ギモンから紐解く!歌舞伎を観てみたい人のすぐに役立つビギナーズガイド」