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『抑圧なんてない』という抑圧

一過性の鎮痛薬から脱却したい

突然だが、私は現在、認知科学コーチングを学んでいる。コーチングの創始者であるルー・タイスの理論を用いたコーチングで、現在日本で広まっている『共感・傾聴しましょう』『答えはあなたの中にある』といったものとは一線を画している。

詳細はまたの機会に詳しく書いていこうと思うが、簡単に言うと、共感傾聴して、クライアントの心に聞いたって答えなんてねぇよ、結局何も変わんねぇんだよ、というもの。笑。

一般的に広まっている『コーチング』は一種の『カウンセリング』であり、アメリカから日本にこの分野が入ってきた時、国内では『カウンセリング』というのは精神的に病んでいる人のためのものという認識があり(今でもそうだが)、商業的に『コーチング』という名前に変えて、広まったものである。一定量の講習を受けて、試験もなく、『はい、コーチの資格あげましょう』というスタイルで、コーチもどきが金儲けや副業、マネージメントスキルの一つとして躍起になっているから笑える。

ただこのコーチングという名のカウンセリングが必要な人、タイミングもある。自己肯定感が低い人、低いタイミングに受ければ、自分を取り戻し、一歩前進できたりするから。

そうやって私もたくさん助けられてきた。今年に入って受講したセルフコーチングは、確かにカウンセリングに近いのだが、私にとってはその時、必要なもので、だからこそ次の一歩を踏み出せたので、感謝している。

私はこれまでに、やれ自分探しだの、自己成長だの言って、1000万近い自己投資をしてきた。でも結局どれもこれも自分の根本を覆すような変化はないのだ。一過性の鎮痛薬のようなもので、完治しないのだ。これは私が悪いのか?そんなこんなで雪だるま式に自己投資額が増えていくのだ。

これまではそれで良かった。一過性でも元気になれれば、また明日から仕事が頑張れるから。ところが、出産後、今まで違和感を感じながらも目を瞑ってきた一過性の鎮痛薬ではなく、根本解決に目を向けざるを得ないなと思うようなことが増えてきた。

このままじゃダメだ、なんとかしなきゃ、立派な母親にならねば、もっと稼がねば、もっともっともっと…。そう思えば思うほど、自分の思い通りにならない幼い娘に対し苛立つことが増えてきた。気がつくと自分が一番なりたくなかったような母親像になっていた。

実母との関係も悪化し、幼い娘も私の表情を窺うようになり、『こんな人生になるはずじゃなかったのに』と憂いては、自分に原因があるのもわかっているのに、どうしたら抜けられるかわからないのだ。

背景には、『あれだけ反対されたのに自分一人で子供を産むと決めたから弱音は吐いちゃいけない』『母親というものは我が子のために自分の幸せは後回しにしなければならない』という完全なる思い込みがあった。今ならわかる。でも当時はわからなかった。

そんなわけで前段で説明した認知科学のコーチングスクールの登場だ。私が学ぶスクールは、信頼する元同僚、先輩、友人たちや錚々たる経営者、ビジネスマンが卒業しており、皆、口を揃えて、『卒業試験も大変だけど、それよりも、過去の自分が思い出せないくらい、自分自身の人生が変わる』と言っていて、興味があった。

そんな時にスクールの説明会で、『プロコーチになるかならないかは置いておいて、自分の人生変えたいと思うならおいで』という学校長の一言を聞いて入学を決めた。絶対使わないぞと決めていた貯金を支払って。

このスクールではコーチングの理論、簡単にいうと脳とマインドのカラクリを学術的に学ぶことはもちろんなのだが、一番重要なのは『自己適用』だと説いている。

ここでは詳細は割愛するが、『コーチ』たるもの、まずは自分の人生を生きていないと、人の人生を導くなんて無理であるという最も重要な部分を大切にしている。

したがって、学ぶ我々がこれまでの自分の人生や自分自身、人間関係と向き合い、これまでの自分だったら絶対にしなかったであろう決断をし、ゴールを設定し、そこに向かって覚悟を決めて、天国も地獄もどちらも抱きしめて、自分の人生を生きるということを体感し自分のものにするのだ。

『私が、私の脳みそで思いつくようなことに自分の人生のハンドルを渡すのをやめる』というメッセージと共に、本物のコーチングは本当に人の人生を変えるということ、その尊さ、コーチというのは職業ではなく生き方・生き様であるということを痛いくらい学ぶのだ。その学びの途中で私には『抑圧』がありすぎるということに気づいた。

不幸せこそが幸せ

私は母親から『あんたは本当に好きなことだけやって、やりたいことは全部やって幸せな人間だ。あんたはおかしいよ。』と言われ続けてきた。

音大に行きたいと言っていたのに、高校3年生の途中で『アナウンサーになりたい』と言っては、急に進路を有名私立大学に変えてみたり。アナウンサーから大手の厳しい営業会社に入社してみたり、海外に行ってみたり、ベンチャー企業に路線変更してみたり、外資系の保険会社入ってみたり。その真骨頂は結婚せず出産してみたり。要は『わがまま』『我慢ができない』『自分がやりたいことは絶対に曲げない頑固』な人間として、家族親族からも『ヤバい奴』認定されている。文句言いながらも、最後は渋々承諾して私を送り出してくれる母親には感謝しかないのだが、それでも子供の頃からとやかく言われているので、私は自分のことをダメな人間だと思って生きてきた。なんで一般的に言われる『普通』の生活ができないんだろう。なんで『普通』じゃ納得しないんだろうと。

その一方で、父が亡くなって、母子家庭となった9歳の頃から、『母を助けねば』『母子家庭を理由に後ろ指差されるような人間ではなく、母子家庭なのにあの家はみんな立派ねと言われるような人間にならねば』と躍起になって生きてきた。ありがたいことに勉強もできる方だったり、なにかと目立つタイプだったので、学校でも中心的存在だった。

母は39歳の若さで、9歳・7歳・5歳の子供を抱える未亡人となり、感情をぶつける先が私しかいなかったのだろう。娘である私の前で『お母さんは不幸だ』と泣いてみたり、私の友達の前で急に泣いてキレ始めたり、その後処理をやってきたのは全て私だった。

また、父方の祖母、叔母(父の姉妹)は、母のいないところで母の文句を言っており、私が隣の部屋にいることも知っている状態で、聞こえるようにいつも話していた。

そんなことが続いていたので、『私は母親の自慢の娘にならなければならない』『母親を守らなければならない』『母親よりも幸せになってはいけない、不幸くらいがちょうどいい』と思うようになっていた。

この『〜ねば』がいつも私の判断軸になっていた。進路も就職も転職も。母の自慢の娘になるために有名大学、有名企業に入る。有名企業で営業のトップになる。大人数の優秀な部下を束ねるマネージャーになる。稼ぐ。そのために、私のプライベートなんてなくていい。寝食忘れ、病気になろうが、仕事をする。結果を出す。自分が辛いということは我慢すれば乗り越えられる。甘えちゃいけない、母はもっと大変だったんだから、私はもっと苦労しなければ、幸せになっちゃいけないのだ…その連続だった。

好きな人と朝を一緒に迎え、ベッドで裸で横たわっている幸福な時間ですら、母親を思い出して『私こんな幸せな時間を過ごしてていいのかな』と焦る気持ちになり、我にかえって急いで帰宅したりしていた。自分が大変な状況や不幸な時の方が、どこか安心するのだ。冷静になって今考えると異常だ。

『精神的家庭内暴力』と『毒親』

以前、メンタルを崩していた時に紹介された臨床心理士の先生に言われたのが『あなたは精神的な家庭内暴力を受けてきたのね』というものだった。その時はまぁ言われてみればそうなのかな?と思いつつも、母子家庭なのに私立大学も行かせてもらい、経済的に苦労をしたこともない私は本当に恵まれてきたし、母の頑張りも見てきたので、そこまで重く受け止めてこなかった。

しかし、コーチングスクールの学校長と話した時に『それ毒親やで。離れないと、娘もお前と同じようになる。毒親は連鎖する。どこかで断ち切らなきゃいけない』と言われてハッとした。

『母親なのにそんな髪型して。短く切りなさい。母親なんだから自分の身なりに時間をかけるなんておかしい』『保育園にそんな格好で行くの?やめなさい。』『お母さんになってもそんなバッチリ化粧しておかしい。』『(娘と)昼寝できるなんて良いご身分ね』『あんたはどうせだらしないんだから家事なんてちゃんとできないでしょ。』などなど、今でも言われる。当たり前になりすぎていて、麻痺していたのだが、よく考えたら、母親の価値観を娘の私に押し付けているだけなのだ。

自分に似合うと思って髪を長くしており、自分のやりたいことを優先しているような私は母親としてはダメな人間だ。昼寝しちゃうなんて母親失格だと自己嫌悪になって、いつも自分にマイナスな言葉をかけていた。

思い起こせば、昔から私の母親は自分の価値観を押し付けてきて、それがあまりに当たり前になってしまい、私の脳はそれらを元に『こうあるべき』というルールを作り、それに支配されている。そのルール、つまり母親の価値観に合っていない自分はダメな人間なのだと判断してきた。

コーチングスクールの中で、自分の『抑圧』、つまり『〜しなければならない』といった自分をがんじがらめにしていることにも向き合うのだが、実は私は自分に抑圧なんてないと思っていた。なぜなら母親から『あんたは好きなことばっかりやって。母親になっても自分の好きなことばっかりやって。』と言われ続けてきたので、自分のことを好き放題やっている自由な人間だと思い込んできたからだ。『抑圧なんてない』ということが『抑圧』だったということに気付いたのだ。

私の人生を生きるための第一歩

42年間で築き上げた抑圧から完全に解放されるには時間がかかるかもしれない。でも抑圧まみれだったのだと気付けたこと自体がめちゃくちゃ大きくて、これまでは仕事以外にやりたいことなんて出てこなかったのに、今では毎日『あれやりたい』『これやりたい』に溢れており、その一つとして25年ぶりにピアノを習い始めた。しかも初めてのジャズ!

少し前の私なら『子供が小さいのに親の私が習い事なんて』と気持ちと行動に制限をかけていたと思うが、それが解放された。また、『私は要領が悪いから複数のことを同時にやり切ることなんてできない』という思い込み(母親から言われてきた呪いの言葉)からも解放され、資格の勉強、金融ライターの仕事、フリーの仕事、転職活動、コーチングの勉強、東京出張(娘連れ)などめちゃくちゃ多動に動き回っている。

そんな毎日を送っていたら、ふと思い出した。

高校3年生の時に音大をやめたのは、気まぐれな私がアナウンサーになりたくなったというミーハーな気持ちが理由だと思っていたが、『アナウンサーになれば有名になって目立てるし、母の自慢の娘になれるから』『音大に入れたとしても、私には生まれつきの才能がないからどうせ埋もれるし、それでは母の自慢の娘になれない』といった抑圧が本当の理由だったということに。

未婚で子供を産み育てると決めた時、我が娘に全力の愛情を注げる人が近くにいた方がいい、実母というリソースが近くにあった方がいいと思い、地元に帰ってきたが、本当は『母の面倒を私が見なければ』『母をずっと一人にしておくわけにはいかない』という気持ちが一番大きかったことも。

ここからが私の人生をリスタートさせる第一歩。どうなるかお楽しみに。


[この記事を書いた人]あまのっち

1981年生まれ。39歳6ヶ月のときに、未婚で娘を出産。以後、地元福島県に戻り、未婚シングルマザーとしてイヤイヤ期の子育て真っ只中。寝食忘れ、営業と人材育成を愛する仕事人間から、人生オールライフで楽しむ史上最高の自分になるため、仕事以外の楽しみを模索中。

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