私は「片付けられない女」です
世の中には、2種類の人間がいる。片付けが苦にならない人と、片付けが面倒な人。片付いていないと不機嫌になる人と、全く平気な人。私は後者である。
料理も洗濯も、やるのはいいが、片付けたりたたんだりするのは本当に苦手。ちなみに、夫は前者。この夫と一つ屋根の下、専業主婦を24年間もやった。その意味では良くやったと思う。日々罪悪感のかたまりだった。
もうすぐ夫が帰ってくる、ああ、リビングだけは片付けないと! ソファの上に取り込んだ洗濯物がいっぱいだ! シンクには洗い物、床には買い物袋、テーブルには郵便物……。私はいつもビクビクしていた。
それでも夫婦仲はいい。だから友達には、「もし私たちが離婚するとすれば、それは私が片付けられないのが理由。それしか考えられない」と事あるごとに伝えてきた。
もちろん、私だって、片付けたい、とは思っている。今日は、「私と片付け」の仁義なき戦いについて語ろう。
なぜ片付けられないんだろう?
一番の理由は「捨てられない」ことだ。紙袋も、ポリ袋も、箱も段ボールも。終わった仕事の原稿も、ショッピングの明細書もクレジットの伝票も。
壊れて動かない腕時計だって、すごく可愛くて捨てられない。本来捨ててもいい物を捨てないために、必要な物を置いておくスペースが狭まっていく。それが自分の首を締めているのはわかってるんだけど、捨てられない!
そこには「捨てるか捨てないか決められない」のも関わってくる。二色ボールペンの一色だけが出なくなったら、あなた、どうします? 私は捨てられない。書き味がイマイチなボールペンも、やっぱり捨てられない。まだ書けるじゃないか、と思ってしまう。結局使わないんだけどね。
新しい財布を買ったからと言って、前の財布を捨てられない。気に入っていたから。じゃ、なんで新しいの買ったのよ? でも、ライフステージによって長財布が欲しかったり小さい財布にしたかったり色々あるでしょ? 前の財布が訴えてる。「捨てないで」って。いつまた使うかわかんないけど。
とにかく、すぐに「捨てる」決断ができないのだ。「捨てる」「捨てない」「保留」に区分したら、「保留」が7割くらいになってしまう。アタマが働かない。
その上、「まだ使える物を人にあげる」作業が苦手ときている。捨てるのはもったいないが、だからといって、メルカリとかガレージセールに出すための準備(値札つけ・クリーニング・撮影など)を面倒に思うから、ズルズルと家に「人にあげる(はずの)モノ」が残り、それも悩みのタネになる。ああ、八方塞がり……。
その上、ここまでは「不要なものを減らせない」理由に過ぎない。「片付け」とは捨てることではなく「整理する」こと。最大のネックになるのが「出せるが戻せない」性格である。
いわゆる「出したら出しっぱなし」。ズボラさこそ、私が「片付けられない」最大の理由なのである。
理想は「図書館のような書斎」ですが、何か?
笑わないでほしい。こんな私が目指すのが、なんと「図書館のような書斎」である。
ライター&講師という職業柄、調べ物が多い。そのために本が増える。一度読んで終わりの本は図書館から借りるから、家にある本で要らない本はまずない。図書館で借りて読んでも、必要ならその本を改めて買ってしまう。本は増える一方だ。
調べるためにはただ並べるだけでなく、取り出せるようにしなければ!
そこで「図書館のような書斎」を作るべく書棚と机周りを整理するため、私は10年ほど前に、初めて他人の力を借りることにした。いわゆる「ライフオーガナイザー」である。これは、ある程度成功した。
歌舞伎の筋書(プログラム)は年月日順にきちんと並べたので、このエリアは今でも「出したら戻す」ができる。モノに居場所を与えることの重要さを痛感したし、それを意識しているつもりではあるが、現実は理想を遥かに凌ぐ勢いで襲いかかる。
なぜなら、私は日々全く異なる仕事を並行して行うから。進行中、私は必要なものを近くに、見える範囲に置いておきたい。それぞれ資料が異なる中、「作業中A」「作業中B」「作業中C」をどうやって並べておけばいいのか? 机は無限に広くない。だから仕方なく積み重ねてしまう。机の上は……やっぱりグチャグチャだ。
どうする?私?
「机の乱れはアタマの乱れ」??
かつて短期で働いていた職場の朝礼で、ある上司が言い放った言葉がある。
「机の上が乱れている人は、頭の整理もできていない」
その時私は人知れず、フッと鼻でせせら笑ったものだ。
(何だよ、その「頭髪の乱れは生活の乱れ」みたいな言い草は!)
そんなふうに言い切れるはずがない。「傑作・名作・世紀の大発明を生んだ世界の実業家たちの仕事部屋」とか「クリエイティブな人ほど部屋が汚い理由」とか、そういう記事に出ている彼らの仕事部屋の写真を見ると、綺麗な人もいれば汚い人もいるではないか。「頭髪の乱れは……」と同じで、一面しか見ないで出した結論だ!
その時は、そう思っていた。でも、最近は自分に言い聞かせる。
「机の乱れはアタマの乱れ」
机の上に物が散乱している、あるいは資料が積み重なっているような状態だと、新しい気持ちでものを考えることができない自分がいる。とにかく、机の上だけは片付けなくては。
そして思った。
「天才たちの“乱れた”机は、思考や創作の始まりの図ではなく、途中の図である」と。
彼らには、きっと助手やら仕事上のパートナーやらがいて、やり散らかした机の後片付けを手伝ってくれたのだろう。あるいは、散らかっているように見えて、その人なりの基準で、整理や区分ができていたのかもしれない。
私はといえば、「とりあえず」でバサっと置いてしまい、元に戻せず、元に戻してくれる人もいない。それを同じ「散らかり」として同一視したことが間違っていたのだ。……まあ、私は天才でもなければ実業家でもないので、その意味でも「同一視」などおこがましい限りなのだが……。
とりあえず、「机の上がグチャグチャ」な時は、「まずは机の上をなんとかする」から始めることにはした。その分、一時的に床の上がグチャグチャになっても仕方ない。緊急避難だ!アタマに直結するお片付けが優先である。
そう。片付けられない女は「右から左」に移動してスッキリさせることしかできない。
好きな物を、一番目立つところへ
最近、お片付けのプロが私の家にやってきた。数年前からの知人で、私があまりに「片付けられない女だ」と口にするため、心配して来てくれたのだ。彼女にはウォークイン・クローゼットの整理を手伝ってもらった。
机まわりはそれなりに仕組みが作られていて、あとは「やるかやらないか」なのだが、「ウォークイン・クローゼット」は放置状態で、「ウォークイン」できないクローゼットと化していた。
彼女はひたすら私に「これはどうする?」と聞き、「ではこうしましょう」とアドバイスすることを繰り返す。気がつけば、「彼女」に片付けてもらったのではなく、「私が」片付けたような錯覚(?)があり、不思議な成功体験を感じたのだった。「ビフォーアフター」に重きを置いていないところも、一般的な「お片付けのプロ」と違っていた。
一番心に響いたアドバイスは、「好きな物は、一番目立つところに置きましょう」。
私がバッグフェチと聞いた彼女は、奥の方にあったバッグを前面に持ってくることを提案した。本当に気分が上がった! 他のどうでもいいものが見えなくなった! 結局、使う人が気持ち良ければそれでいい。そういうお片付けだった!
もう一つ、すごいなと思ったのが「たたむ」行為だ。私が「要る服」と「捨てる服」を選別している間に、彼女は要る服を次々と畳んでいく。その指先がとても優しくて、服への愛情が感じられ、「たたむって素敵」と感心してしまった。こんなことは初めてだ。衣類は吊したほうがシワにならなくていい、と思っていた私が!
以来、私は「たたむ」ことはあまり苦にならなくなった。これは革命的な事件である。
しかし、「きれいなお部屋」はそう易々とはキープできない。忙しくなると、家の中は途端にグチャグチャに。毎日ちょっとずつ片付けるのが王道だ、とは知っているが、できない。だから私は「片付けられない女」なのだ。(威張ってどうする?)
それでも、いつも思っている。
「片付けたい!」
……ということは、私は「片付けられない女」じゃなくて、「片付けたい女」なのかしら?
永遠に、片付けられないかもしれないけど……。
ダイエットと同じだなあ。なかなか結果が出ないけど、だからといって諦めたらリバウンド。だから、お片付けも少しでも成果が出れば、自分を思いっきり褒めてあげようと思う。「片付けたい」と思っている間は、離婚されずに済むかもしれない。
[この記事を書いた人]仲野マリ(Mari Nakano)
エンタメ水先案内人 1958年東京生まれ、早稲田大学第一文学部卒。
映画プロデューサーだった父(仲野和正・大映映画『ガメラ対ギャオス』『新・鞍馬天狗』などを企画)の影響で映画や舞台の制作に興味を持ち、現在は歌舞伎、ストレートプレイ、ミュージカル、バレエなど、年120本以上の舞台を観劇。おもにエンタメ系の劇評やレビューを書く。坂東玉三郎、松本幸四郎、市川海老蔵、市川猿之助、片岡愛之助などの歌舞伎俳優や、宝塚スター、著名ダンサーなど、インタビュー歴多数。作品のテーマに踏み込みつつ観客の視点も重視した劇評に定評がある。2001年第11回日本ダンス評論賞(財団法人日本舞台芸術振興会/新書館ダンスマガジン)佳作入賞。日本劇作家協会会員。
電子書籍「ギモンから紐解く!歌舞伎を観てみたい人のすぐに役立つビギナーズガイド」