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命は燃やすものだと母が教えてくれた

母は生涯で3度も原発のがんに罹りました。最初に罹ったのは51歳のとき。それが世界で初めての症例だったので、最初に行った病院では血液の癌の転移で余命6ヶ月と言われ、セカンドオピニオンで訪れた築地の国立がんセンターで3ヶ月にわたる検査の結果、ようやく転移ではなく原発だとわかり、放射線と抗がん剤で治療をしました。

それはすっかり寛解し、次に発症したのが74歳のときの乳がん、そして76歳で食道がん。これがいずれも転移ではなく原発だったのよね。最後の食道がんのときは、ある日突然水も喉を通らなくなり慌てて病院に連れて行ったのですが、X線の写真を見た途端、素人目にもわかるほど悪そうなヤツが食道を塞いでいるのがわかりました。

母は12時間の内視鏡手術を受けて、一旦は回復してうちに戻って生活をしていたけど、3ヶ月もしないうちに悪くなって再入院。そのときには肝臓にも肺にも転移していて、本人も「もはやこれまで」と覚悟を決めました。母は私と同じで生に執着するタイプではないし、何より精一杯生きてきたからね。

私の職場がある新宿から築地のがんセンターまでは20分くらいなので、私は毎日仕事の帰りに病院に寄って様子を見ていました。意識ははっきりしていましたが、母は段々と弱っていき、苦しそうに下顎呼吸をするようになりました。その、はぁはぁと一所懸命息をする姿を見ていたら、私にはまるで母が最後のレースを走るマラソン選手のように思えたのです。命ってこんな風に燃やすものなんだと思った。母が今、最後の命を一所懸命燃やしているのだと思うと感動的ですらありました。

「苦しいね。でもママは今35キロ地点あたりを走ってるからね。後少し頑張ればゴールだから」。私がそう言うと、母は素直に頷いていました。翌日、娘が子どもたちを連れてお見舞いに来ました。母はとても嬉しそうで、帰り際には酸素マスクの下で「バイバイ」と言って手を振りました。その瞬間、私はそれが今生の別れになるとわかったけれど、「また明日来るね」と言って娘たちと一緒に病院を出たのでした。

翌日、職場に着いた途端に病院から電話がかかって来ました。「血圧が下がって危ない状態です」。すぐに電車に飛び乗り大急ぎで病院へ向かいました。いつも開け放してある扉が閉まっていました。「間に合わなかったか」と思った。そっと扉を開けると、母は酸素マスクを外して静かに眠っていました。その肉体は抜け殻でした。「ママったら、せっかちだから独りでゴールを切っちゃったのね」。

不思議と悲しみがなかった。むしろ、マラソンを走り切って独りでゴールした母に爽やかささえ感じました。­­「偉かったよね。熱い女だったよね。私たちのために一所懸命働いてくれて、やりたいこともやって、命を燃やし切ったよね。私もママみたいに、この命を精一杯使って燃やし切ろうと思うよ。私をこんな風に生んでくれてありがとう」。

やまざきゆりこ


[この記事を書いた人]やまざき ゆりこ

娘2人がまだ幼い30代前半のときに在宅ワークができるという理由でコピーライターになる。同時期に、伯母の勧めで書と墨絵を始め、以来文章を書くことと絵を描くことがライフワークに。6年前、思いつきで始めた日本画で色の世界にハマり、コロナ禍のおうち時間に身近な動物を描いていたらいつの間にかペットの肖像画家に。57歳で熟年離婚。現在はフリーペーパーのコピーライターをしながら、オーダー絵画の制作に勤しんでいる。着物好き、アート好き、美しいものが好きな1957年生まれ。

墨絵&日本画 梨水
http://risui-sumie.sakura.ne.jp/wp/

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